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一の宮めぐり(九州編その4)

筑前国一の宮「筥崎宮」

福岡には一の宮が2社あります(筥崎宮と住吉神社)。

奈良時代のこと、国司が任国に赴任した際には地元の有力神社を巡拝するのが習わしだったそうです。そのとき最初に参拝する神社が一の宮、次に参拝するのが二の宮、三番目が三の宮と呼ばれるようになりました。

福岡に2つの一の宮があるということは、もしかしたら、新たに着任した国司を筥崎宮と住吉神社が奪い合った、なんて考えると面白いですね。
この辺りのこと知っている方がいらっしゃいましたら教えてください。

筥崎宮のご祭神は応神天皇神功皇后、そして玉依姫です。八幡宮に玉依姫が祀られているのは珍しいのではないでしょうか。玉依姫は初代神武天皇の母君にあたる方です。

筥崎宮は元寇に縁が深いところとしても知られ、楼門に掲げられた亀山上皇「敵国降伏」の扁額はことに有名です。

教科書にも掲載されている「蒙古襲来絵巻」には、筥崎宮の鳥居の周辺に御家人たちが集結している様子が描かれています。またこの絵巻には住吉神社の鳥居も描かれています。

蒙古襲来絵詞に描かれた筥崎宮の鳥居
蒙古襲来絵詞に描かれた住吉神社の鳥居

これをみる限り、鎌倉時代には両社とも一の宮的な神社として認識されていたようです。

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一の宮めぐり(九州編その3)

筑前国一の宮「住吉神社」

古事記によれば、黄泉の国から逃げ帰った伊弉諾筑紫日向の橘の小門の阿波岐原の地で禊祓をしたときに住吉三神(底筒男神(そこつつのおのかみ)、中筒男神(なかつつのおのかみ)、表筒男神(うわつつのおのかみ))が生まれたとされています。

この禊祓の地に創建されたのが住吉神社という訳です(諸説あり)。

住吉三神は海にまつわる神なので、住吉系の神社は海辺にあることが多いのですが、鎌倉時代の古地図をみると、今の住吉神社がある辺りは海だったことが分かります。

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一の宮めぐり(九州編その2)

一の宮巡り第二弾は、肥前国一の宮「千栗八幡宮」
「ちくり」と読んでしまいそうですが「ちりく」と読みます。

その昔、夢の中で八幡神に誘われてこの地を訪れました人がいました。
そこで見たものは、千本の栗の木が逆さに生い茂っているというなんとも不思議な光景。

栗が逆さまだから「りく」というオチです。

八幡宮なので、御祭神は、応神天皇(八幡神)仲哀天皇神功皇后といういつもの組み合わせです。仲哀天皇とその后である神功皇后の子供が応神天皇という親子関係になります。
この3人と武内宿禰を覚えておけば、八幡宮めぐりも怖いものなしです。

ちなみに第十四代仲哀天皇は日本武尊の子です。

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一の宮めぐり(九州編)

思い立って始めてみた一の宮めぐり

参拝記念には御朱印ではなく交通安全ステッカーを授けていただきましょう。

第一弾は筑後国一の宮「高良大社」です。
御祭神は高良玉垂命、八幡大神、住吉大神。

その昔、懐良親王菊池武光ら九州南朝方が布陣した地だけあって、眼下には筑後平野が一望できます。

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史跡

弘法大師と遣唐使

平戸市内を移動中に「弘法大師渡唐解纜之地」という案内板が目に入りました。
「解纜って何だ?」と気になったので、ちょっと立ち寄ってみました。

解纜(かいらん)とは、纜(ともづな)を解く=出帆のことです。

今から1200年余り前のこと。
この平戸の田ノ浦から唐の長安を目指して、弘法大師を乗せた遣唐使船が出帆しました。

弘法大師がこの地に滞在していたという事実はないようです。弘法大師は難波津(大阪港)から唐に向かったと記されていますので、もしかしたら平戸までは小型船で移動し、この地に停泊していた遣唐使船に乗り換えたのかもしれません。

梅雨の晴れ間の穏やかな海をぼんやりと眺めながら、ふと、遣唐使はどのようなルートを辿って唐を目指したのだろうか?という疑問が湧いてきました。

200年以上にわたる遣唐使の歴史のなかで相当数の遣唐使船が沈没したり行方不明になったりしたのだそうです。遣唐使船は4隻体制で編成されていたそうですが、弘法大師が渡唐したときに唐に到着することができた船はそのうちの2隻だけだったといわれています。

その無事だった2隻の船にそれぞれ弘法大師(空海)と伝教大師(最澄)が乗船していたというのですから、まさに御仏の加護というべきでしょうか。

ちょっと話ができすぎているような気もしますが。