天智天皇と土木工事

先日、仕事で移動中の車窓から「泌泉」と書かれた説明板を見かけました。この日は時間に余裕があったので、近くに車を停め、まずは説明板を読みます。天智天皇が右大臣の金連に命じて造営されたものであると記されています。説明板によると泌泉は灌漑目的の施設だったようですが、時代背景を考えると、北部九州に配備された兵士(防人)の食糧を確保するために造営されたのではないかと思われます。

帰宅後に調べてみると、右大臣の金連とは中臣金のことで、かの有名な中臣鎌足の従兄弟にあたるのだそうです。鎌足と共に皇子時代から天智天皇に仕えた中臣金は、泌泉造営の4年後に起きた壬申の乱で天智天皇の子の大友皇子側に立ち、最期は敗軍の将として斬刑に処されたと日本書記には記されています。

第37代斉明天皇は、中大兄皇子(第38代天智天皇)、大海人皇子(第40代天武天皇)の実母として有名ですが、大の土木工事好きとしても知られています。日本書紀にも、「(前略)時に興事(こうじ)を好む。すなはち水工をして渠を穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。(中略)時の人の謗りて曰はく『狂心渠(たぶれごころのみぞ)』。功夫を損し費すこと三万余。垣造る功夫を費し損すこと七万余。(後略)」と記されているほどです。
なお、「興事」とは工事のことですが、称呼が同一ですね。工事の語源が「興事」なのか調べてみたのですが、明確な答えは見つけられませんでした。

私の住む福岡やその周辺には、斉明天皇〜天智天皇の時代の土木構造物の遺跡が数多くあります。大陸(唐)や半島(新羅)との戦いに備えて築城されたといわれる大野城基肄城、これらの山城の間の平野部に築かれた水城大堤小水城、さらには神籠石などなど。
大規模な土木工事には莫大な労力と費用が必要であることを考えると、天智天皇の時代(7世紀末)には、中央から遠く離れた九州において大規模な土木工事を実施するだけの絶大な権力が確立していたことが分かります。